孟銭朗読:芥川龍之介「蜘蛛の糸」をアップしました。
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拾遺詩篇から「合唱」です。 にくしんとは生身のカラダのことで、神経痛的な指の痛み、淋病などの疾患、さらには天帝から罰を受けているといった強迫観念に見舞われていたという朔太郎が、自分の身体を見つめているのでしょうか。
拾遺詩篇から「合唱」です。 にくしんとは生身のカラダのことで、神経痛的な指の痛み、淋病などの疾患、さらには天帝から罰を受けているといった強迫観念に見舞われていたという朔太郎が、自分の身体を見つめているのでしょうか。
拾遺詩篇から「冬を待つひと」を読みました。『遍路』大正4(1915)年1月号。 銀の針はこの時期朔太郎を悩ませていた、疾患による苦痛のメタファーともいわれるとか。
拾遺詩篇から「冬を待つひと」を読みました。『遍路』大正4(1915)年1月号。 銀の針はこの時期朔太郎を悩ませていた、疾患による苦痛のメタファーともいわれるとか。
『月に吠える』所収の「地面の底の病気の顔」は当初「白い朔太郎の病気の顔」という詩として、北原白秋の雑誌『地上巡礼』大正4(1915)年3月号に発表されました。 疾患、病気は朔太郎初期作品の重要なモチーフで、北原白秋も「君の詩は病的産物の最も代表的なものだ」「君の最近の詩を読むと神経過敏の恐ろしさに戦慄する」と言っていたそうです(朔太郎朗読その70 萩原栄次宛書簡)。
『月に吠える』所収の「地面の底の病気の顔」は当初「白い朔太郎の病気の顔」という詩として、北原白秋の雑誌『地上巡礼』大正4(1915)年3月号に発表されました。 疾患、病気は朔太郎初期作品の重要なモチーフで、北原白秋も「君の詩は病的産物の最も代表的なものだ」「君の最近の詩を読むと神経過敏の恐ろしさに戦慄する」と言っていたそうです(朔太郎朗読その70 萩原栄次宛書簡)。
大正4(1915)年1月18日(推定)の萩原栄次(従兄)宛書簡です。栄次は朔太郎に文学(短歌)の手ほどきをした人で、親戚からも変人扱いされていたという朔太郎の理解者というべき人物。『月に吠える』は萩原栄次に捧げられています。 北原白秋に寄せる朔太郎の信仰ぶりがスゴい! 白秋はのちに『月に吠える』に感動的な序文を寄せていますが、一方でもっと後に「あんな序文やっつけ仕事だ」と放言したとも言われ、それを聞いた三好達治が激怒したとも。 でもこの当時は北原白秋も近代詩のパイオニアとして光輝を放っており、孤独の人萩原朔太郎にとっては無二の理解者だったのでしょう。
大正4(1915)年1月18日(推定)の萩原栄次(従兄)宛書簡です。栄次は朔太郎に文学(短歌)の手ほどきをした人で、親戚からも変人扱いされていたという朔太郎の理解者というべき人物。『月に吠える』は萩原栄次に捧げられています。 北原白秋に寄せる朔太郎の信仰ぶりがスゴい! 白秋はのちに『月に吠える』に感動的な序文を寄せていますが、一方でもっと後に「あんな序文やっつけ仕事だ」と放言したとも言われ、それを聞いた三好達治が激怒したとも。 でもこの当時は北原白秋も近代詩のパイオニアとして光輝を放っており、孤独の人萩原朔太郎にとっては無二の理解者だったのでしょう。
大正4(1915)年1月14日(推定)の北原白秋宛書簡を読みました。人名や地名は前橋の朔太郎ゆかりの詩歌人や、飲食店です。「河野君」をコウノ、カワノと変えて読んでいるのはただの間違いです。ごめなさい。コビトの諸君とは詩歌の会・侏儒社のメンバーです。 北原白秋に寄せる絶対的な信頼(信仰)に対して、白秋のとって朔太郎は「割とどうでもいい後輩」ポジションだったという見方もありますが、朔太郎の白秋信仰は昭和になっても(表面上)揺るがなかったようです。 「竹」を評価してくれて嬉しい、僕の病的な性格を残酷に引きずり出す白秋が愛しい反面怖いなど、興味深い記述も。白秋が朔太郎の手紙を取っておいてくれて本当によかったえ
大正4(1915)年1月14日(推定)の北原白秋宛書簡を読みました。人名や地名は前橋の朔太郎ゆかりの詩歌人や、飲食店です。「河野君」をコウノ、カワノと変えて読んでいるのはただの間違いです。ごめなさい。コビトの諸君とは詩歌の会・侏儒社のメンバーです。 北原白秋に寄せる絶対的な信頼(信仰)に対して、白秋のとって朔太郎は「割とどうでもいい後輩」ポジションだったという見方もありますが、朔太郎の白秋信仰は昭和になっても(表面上)揺るがなかったようです。 「竹」を評価してくれて嬉しい、僕の病的な性格を残酷に引きずり出す白秋が愛しい反面怖いなど、興味深い記述も。白秋が朔太郎の手紙を取っておいてくれて本当によかったえ
未発表詩篇から「空中楼閣」を読みました。 『純情小曲集』の諸作品に通じるものがあると思いますが、声に出してみるとやっぱり緊張感とかギュッと詰まった感が違っていて、軽めな感じがします。好きな詩ではありますが。
未発表詩篇から「空中楼閣」を読みました。 『純情小曲集』の諸作品に通じるものがあると思いますが、声に出してみるとやっぱり緊張感とかギュッと詰まった感が違っていて、軽めな感じがします。好きな詩ではありますが。
大正4(1915)年1月14日付(推定)の萩原朔太郎→北原白秋宛書簡を読みました。 敬愛する北原白秋が突然前橋にやってきたので、朔太郎は大歓喜で文学仲間と共に出迎え、白秋は数日を共に過ごしました。 実はこの時、病弱な朔ちゃんは途中から発熱し、それを我慢して歓待していたのだとか。白秋を見送ったと同時に倒れる朔ちゃんです。
大正4(1915)年1月14日付(推定)の萩原朔太郎→北原白秋宛書簡を読みました。 敬愛する北原白秋が突然前橋にやってきたので、朔太郎は大歓喜で文学仲間と共に出迎え、白秋は数日を共に過ごしました。 実はこの時、病弱な朔ちゃんは途中から発熱し、それを我慢して歓待していたのだとか。白秋を見送ったと同時に倒れる朔ちゃんです。
拾遺詩篇から「ふぶき」を読みました。「あららんらん」が印象的です。オノマトペの詩人といえば宮澤賢治(どっどどどどうど)、中原中也(ゆあーんゆよーん)が有名ですが、萩原朔太郎はその先駆けとして犬や鶏の鳴声などに独特な擬音をあてていました。
拾遺詩篇から「ふぶき」を読みました。「あららんらん」が印象的です。オノマトペの詩人といえば宮澤賢治(どっどどどどうど)、中原中也(ゆあーんゆよーん)が有名ですが、萩原朔太郎はその先駆けとして犬や鶏の鳴声などに独特な擬音をあてていました。
未発表詩篇から「蝕金光路」(東京遊行詩篇、四)です。 漫画『月に吠えたンねえ』第一話(Palcyで無料で読めます)で、主人公朔くんが膨大な習作を書きながら全て反古にしてしまうのを見て、親友犀が「どこかの雑誌に載せられる出来だろ?」と呆れる場面があります。 そんな未発表詩の一つですが、確かに読んでいてピンと来る感じはちょっと鈍いかも...。 それでも興味は尽きません。やっぱり全集ほしい(いつかは)。
未発表詩篇から「蝕金光路」(東京遊行詩篇、四)です。 漫画『月に吠えたンねえ』第一話(Palcyで無料で読めます)で、主人公朔くんが膨大な習作を書きながら全て反古にしてしまうのを見て、親友犀が「どこかの雑誌に載せられる出来だろ?」と呆れる場面があります。 そんな未発表詩の一つですが、確かに読んでいてピンと来る感じはちょっと鈍いかも...。 それでも興味は尽きません。やっぱり全集ほしい(いつかは)。
大正4(1915)年1月9日、銀ブラ中だった北原白秋が、突然汽車に乗って萩原朔太郎に会いにやって来ます。前の年に「さびしいさびしい、会いに来てほしい」というはがきを連日出していた朔太郎は大喜びで出迎え、白秋は14日まで滞在します。 これは白秋が発行していた文芸誌『地上巡礼』に白秋が書いた編集後記で、朔太郎に会いに行ったこと、前橋で見た上州の山々の印象、そして当時白秋がウリにしていた「麗か」について述べられています。 文中の尾山篤二郎は歌人。「侏儒」は大正3年に前橋で結成されて若手中心の詩歌雑誌で、萩原朔太郎がリーダー格でした。シュジュと読んでいますが間違いで、本当はコビトです。ごめんなさい。
大正4(1915)年1月9日、銀ブラ中だった北原白秋が、突然汽車に乗って萩原朔太郎に会いにやって来ます。前の年に「さびしいさびしい、会いに来てほしい」というはがきを連日出していた朔太郎は大喜びで出迎え、白秋は14日まで滞在します。 これは白秋が発行していた文芸誌『地上巡礼』に白秋が書いた編集後記で、朔太郎に会いに行ったこと、前橋で見た上州の山々の印象、そして当時白秋がウリにしていた「麗か」について述べられています。 文中の尾山篤二郎は歌人。「侏儒」は大正3年に前橋で結成されて若手中心の詩歌雑誌で、萩原朔太郎がリーダー格でした。シュジュと読んでいますが間違いで、本当はコビトです。ごめんなさい。
拾遺詩篇から「疾患光路」です。『月に吠える』の諸作品はもちろん、大正3年頃書かれた詩は朔太郎を見舞った数々の疾患(歯痛、神経痛、淋病、神経衰弱など)が昇華される形で出来ているみたいで、興味深いです。やっぱり創作ノートや解説が載っている『萩原朔太郎全集』が欲しい!でもお金と、何より置き場が無い!いかん いかんぞ。
拾遺詩篇から「疾患光路」です。『月に吠える』の諸作品はもちろん、大正3年頃書かれた詩は朔太郎を見舞った数々の疾患(歯痛、神経痛、淋病、神経衰弱など)が昇華される形で出来ているみたいで、興味深いです。やっぱり創作ノートや解説が載っている『萩原朔太郎全集』が欲しい!でもお金と、何より置き場が無い!いかん いかんぞ。
「光る地面に竹が生え...」の雑誌(『地上巡礼』)発表時の原型版を読みました。「しんこう」は新光ですが、信仰にもかけてあるのかも?
「光る地面に竹が生え...」の雑誌(『地上巡礼』)発表時の原型版を読みました。「しんこう」は新光ですが、信仰にもかけてあるのかも?
拾遺詩篇から「竹の根の先を掘る人」です。 草木姦淫を犯して天帝の怒りに触れ、体中から竹が生えてその根に侵蝕されるというイメージが詩になっていくのは、たしかにそれまでの日本の詩には見られなかったろうなと思わざるを得ません。 ちゃんと研究書や朔太郎全集所収の創作ノートを読みたいところです。
拾遺詩篇から「竹の根の先を掘る人」です。 草木姦淫を犯して天帝の怒りに触れ、体中から竹が生えてその根に侵蝕されるというイメージが詩になっていくのは、たしかにそれまでの日本の詩には見られなかったろうなと思わざるを得ません。 ちゃんと研究書や朔太郎全集所収の創作ノートを読みたいところです。
拾遺詩篇から「竹」を読みました。 国語の教科書に載っている「竹」とは別の作品ですが、原型のひとつだそうです。
拾遺詩篇から「竹」を読みました。 国語の教科書に載っている「竹」とは別の作品ですが、原型のひとつだそうです。
『月に吠える』に収められなかった「磨かれたる金属の手」です。 疾患によって指が痛むとあるのは、大正3年10月28日付の北原白秋宛はがきに どうにかしてください さかなの行列には困る ゆびがいたい と書かれていたことを思い出さされます。本当に指が痛かったんだね、朔ちゃん。
『月に吠える』に収められなかった「磨かれたる金属の手」です。 疾患によって指が痛むとあるのは、大正3年10月28日付の北原白秋宛はがきに どうにかしてください さかなの行列には困る ゆびがいたい と書かれていたことを思い出さされます。本当に指が痛かったんだね、朔ちゃん。
朔太郎初期作品「クリスマス」です。 県下有数の大病院の長男であり、室生犀星が面食らったほどのハイカラ野郎だった朔ちゃんをしのぐ「隣」って実在したのかよ?という疑問が。 多分教会の集まりとか、詩にある通りクリスチャンのお家の様子を見聞きしたとかがモチーフでしょう。 メーテルリンクの『青い鳥』は、まさにクリスマス(イヴの夜?)、貧しい木こりの兄妹チル・チルとミ・チルが裕福な隣の家のクリスマスパーティーを覗き見るところから始まるのでした。
朔太郎初期作品「クリスマス」です。 県下有数の大病院の長男であり、室生犀星が面食らったほどのハイカラ野郎だった朔ちゃんをしのぐ「隣」って実在したのかよ?という疑問が。 多分教会の集まりとか、詩にある通りクリスチャンのお家の様子を見聞きしたとかがモチーフでしょう。 メーテルリンクの『青い鳥』は、まさにクリスマス(イヴの夜?)、貧しい木こりの兄妹チル・チルとミ・チルが裕福な隣の家のクリスマスパーティーを覗き見るところから始まるのでした。
また大正初期に戻って拾遺詩篇から「諷詩–人魚詩社の人たちに與ふ–」です。よく考えたら、やっと朔太郎の本領たる口語詩を読めました。 室生犀星の『我が愛する詩人の伝記』の山村暮鳥編には、大正初期に売出中だった犀星、朔太郎にとって、北原白秋の雑誌『地上巡礼』などにはいつも暮鳥の詩が載っていて、この先行する詩人が目障りでならなかった。朔太郎を焚きつけて、詩の力でやっつけろと言ったら、お前は何でも俺におごらせた上に、決闘まで2人分やらせようというのかと怒った、という逸話が出ています。 聖人、という言葉からはキリスト教伝道師だった暮鳥が浮かびますが、虫や魚などの小さな命を慈しみ『動物詩集』も著す犀星も、その仲間らしく思われます。
また大正初期に戻って拾遺詩篇から「諷詩–人魚詩社の人たちに與ふ–」です。よく考えたら、やっと朔太郎の本領たる口語詩を読めました。 室生犀星の『我が愛する詩人の伝記』の山村暮鳥編には、大正初期に売出中だった犀星、朔太郎にとって、北原白秋の雑誌『地上巡礼』などにはいつも暮鳥の詩が載っていて、この先行する詩人が目障りでならなかった。朔太郎を焚きつけて、詩の力でやっつけろと言ったら、お前は何でも俺におごらせた上に、決闘まで2人分やらせようというのかと怒った、という逸話が出ています。 聖人、という言葉からはキリスト教伝道師だった暮鳥が浮かびますが、虫や魚などの小さな命を慈しみ『動物詩集』も著す犀星も、その仲間らしく思われます。
また年代が前後しますが、昭和9(1934)年発行の詩集『氷島』から「帰郷」(昭和6年)を読みました。 昭和30年、萩原朔太郎の33回忌を契機として故郷前橋に初めて建てられた詩碑には、この詩の「まだ上州の山は見えずや」までが刻まれています。 なお詩の中では昭和4年の冬とありますが実際の帰郷は7月で、心情にふさわしい季節を「真実」とする朔太郎の見方が表れています。
また年代が前後しますが、昭和9(1934)年発行の詩集『氷島』から「帰郷」(昭和6年)を読みました。 昭和30年、萩原朔太郎の33回忌を契機として故郷前橋に初めて建てられた詩碑には、この詩の「まだ上州の山は見えずや」までが刻まれています。 なお詩の中では昭和4年の冬とありますが実際の帰郷は7月で、心情にふさわしい季節を「真実」とする朔太郎の見方が表れています。
大正3年12月10日付北原白秋宛封書を読みました。後の『月に吠える』の代表作のひとつ「亀」「天上縊死」を生み出した自負心と不安が語られていて興奮します。 「詩人は作らるる者に非ず」は、詩人となる者は天性の才を持っていて、それ以外の者には優れた詩は書けないという意味。朔太郎、白秋、室生犀星ともに「生まれた詩人」であることが詩を作る重要要素だと言っています。朔太郎は努力型?で門戸開放を唱えた民衆詩派に否定的だったそうです。 大正4年にも朔太郎は秀作の数々を生み出し、2年後にそれらは『月に吠える』として結晶します。
大正3年12月10日付北原白秋宛封書を読みました。後の『月に吠える』の代表作のひとつ「亀」「天上縊死」を生み出した自負心と不安が語られていて興奮します。 「詩人は作らるる者に非ず」は、詩人となる者は天性の才を持っていて、それ以外の者には優れた詩は書けないという意味。朔太郎、白秋、室生犀星ともに「生まれた詩人」であることが詩を作る重要要素だと言っています。朔太郎は努力型?で門戸開放を唱えた民衆詩派に否定的だったそうです。 大正4年にも朔太郎は秀作の数々を生み出し、2年後にそれらは『月に吠える』として結晶します。
『氷島』から「無用の書物」です。 三好達治編『萩原朔太郎』詩集からは「無用の書物」「虚無の鴉」共に落とされていますが(そもそも三好は『氷島』自体評価していない)、私はどちらも好きです。
『氷島』から「無用の書物」です。 三好達治編『萩原朔太郎』詩集からは「無用の書物」「虚無の鴉」共に落とされていますが(そもそも三好は『氷島』自体評価していない)、私はどちらも好きです。
冬至にちなんで、昭和9(1934)年刊行の『氷島』から「虚無の鴉」を読みました。萩原朔太郎49歳、妻に逃げられた失意と憤懣が、自ら切り拓いてきた口語自由詩を投げ捨てさせ、文語詩に回帰しています。
冬至にちなんで、昭和9(1934)年刊行の『氷島』から「虚無の鴉」を読みました。萩原朔太郎49歳、妻に逃げられた失意と憤懣が、自ら切り拓いてきた口語自由詩を投げ捨てさせ、文語詩に回帰しています。
大正3(1914)年11月に萩原朔太郎が北原白秋に送ったはがきです。 『月に吠える』の大きなモチーフとなっている浄罪の意識が登場していて興奮します。これは草木姦淫と呼ばれ、ひと言で言えば、女性と交わっていないのに昔遊廓で感染した淋病が再発した、これは夢で樹木の精と姦淫したことが天帝の怒りに触れたためだというもの。 朔太郎の罪の意識が何に由来するかは諸説あり、人妻エレナへの思慕が旦那にバレたので姦通罪に問われるのではないか程度だとする、みもふたもない説もあるとか。 いずれにしても、『月に吠える』の詩を読んでいくにあたり、とても興味深いです。
大正3(1914)年11月に萩原朔太郎が北原白秋に送ったはがきです。 『月に吠える』の大きなモチーフとなっている浄罪の意識が登場していて興奮します。これは草木姦淫と呼ばれ、ひと言で言えば、女性と交わっていないのに昔遊廓で感染した淋病が再発した、これは夢で樹木の精と姦淫したことが天帝の怒りに触れたためだというもの。 朔太郎の罪の意識が何に由来するかは諸説あり、人妻エレナへの思慕が旦那にバレたので姦通罪に問われるのではないか程度だとする、みもふたもない説もあるとか。 いずれにしても、『月に吠える』の詩を読んでいくにあたり、とても興味深いです。
大正3年の萩原朔太郎の手紙が面白すぎて先へ進めません。この頃から大正4年にかけて『月に吠える』所収の名詩の数々が生み出されています。パッピイナって何?
大正3年の萩原朔太郎の手紙が面白すぎて先へ進めません。この頃から大正4年にかけて『月に吠える』所収の名詩の数々が生み出されています。パッピイナって何?
エレナ(馬場ナカ)と萩原朔太郎の交歓がどの程度のものだったかは、ハッキリわかっていないようです。多分に朔太郎の創作とするものから、初期代表作「夜汽車」はエレナを療養所から連れ出して旅行した時の実話に基くとするものまで様々とか。若くして亡くなったエレナの面影は、後年の作品に「浦」という亡霊の女性として登場するなど、朔太郎の創作活動に強く影響を残したようです。
エレナ(馬場ナカ)と萩原朔太郎の交歓がどの程度のものだったかは、ハッキリわかっていないようです。多分に朔太郎の創作とするものから、初期代表作「夜汽車」はエレナを療養所から連れ出して旅行した時の実話に基くとするものまで様々とか。若くして亡くなったエレナの面影は、後年の作品に「浦」という亡霊の女性として登場するなど、朔太郎の創作活動に強く影響を残したようです。
大正3(1914)年に戻って、拾遺詩篇から「ぎたる弾くひと」を読みました。11月の作らしいのですが、この月に朔太郎は旧知の女性エレナを音楽会に誘うも彼女は来ず、代わりに旦那がやって来て挨拶するという「事件」を経験しています。
大正3(1914)年に戻って、拾遺詩篇から「ぎたる弾くひと」を読みました。11月の作らしいのですが、この月に朔太郎は旧知の女性エレナを音楽会に誘うも彼女は来ず、代わりに旦那がやって来て挨拶するという「事件」を経験しています。
昭和12(1937)年12月11日付の丸山薫宛書簡を読みました。 伊豆の伊東温泉に来ないかという手紙で、日本浪曼派の保田與重郎も誘って一緒に来たらと勧めていますが、日本軍の南京占領にそなえて戦争詩「南京陥落の日に」を朝日新聞に送った後悔をボヤいていることで知られます。 自分の書きたい詩を書いては雑誌社などに売り込むのを常としていたという朔太郎としては、相手の注文通りの詩、しかもまだ起きてもいない南京陥落の感動を拵えて詩にするのは相当苦痛だった模様。時流に合わせて歌謡曲の歌詞を量産していた西條八十を引き合いに出して嘆いています。 ちなみに昭和の日本の軍歌(戦時歌謡)がやたらと戦死を美化し、悲壮感を売りにするようになったのは西條八十、佐藤惣之助といった売れっ子詩人たちが流行歌の手法で作詞したからともいわれます。悲恋に泣く男女のノリで軍歌を作ったというわけで、戦記文学の伊藤圭一は堕落だと切り捨てています。
昭和12(1937)年12月11日付の丸山薫宛書簡を読みました。 伊豆の伊東温泉に来ないかという手紙で、日本浪曼派の保田與重郎も誘って一緒に来たらと勧めていますが、日本軍の南京占領にそなえて戦争詩「南京陥落の日に」を朝日新聞に送った後悔をボヤいていることで知られます。 自分の書きたい詩を書いては雑誌社などに売り込むのを常としていたという朔太郎としては、相手の注文通りの詩、しかもまだ起きてもいない南京陥落の感動を拵えて詩にするのは相当苦痛だった模様。時流に合わせて歌謡曲の歌詞を量産していた西條八十を引き合いに出して嘆いています。 ちなみに昭和の日本の軍歌(戦時歌謡)がやたらと戦死を美化し、悲壮感を売りにするようになったのは西條八十、佐藤惣之助といった売れっ子詩人たちが流行歌の手法で作詞したからともいわれます。悲恋に泣く男女のノリで軍歌を作ったというわけで、戦記文学の伊藤圭一は堕落だと切り捨てています。
大正3(1914)年の『月に吠える』前夜から突然、日中戦争(支那事変)下の昭和12(1937)年12月に飛びます。ちょうど85年前の今日(12月13日)、中華民国の首都南京を日本軍が攻略したというニュースと共に東京朝日新聞に載ったのが、萩原朔太郎唯一の時局詩=戦争協力詩とされる「南京陥落の日に」でした。国内では戦勝祝賀の提灯行列が催されるなどお祭騒ぎでしたが、蔣介石は中国奥地に移って抗戦を継続。また現地では捕虜の殺害や住民への略奪暴行といった「南京事件」が起きていました。 当時、西欧文明の模倣への反省から「日本への回帰」を主張していたこともあって、朔太郎の国粋主義化の象徴とも見られがちな詩ですが、一方丸山薫への手紙で「断りきれず無良心の仕事をした」と弁解していたりも...。 しかし大正3年から昭和12年に飛ぶとか、『月に吠えらんねえ』みたいじゃ。
大正3(1914)年の『月に吠える』前夜から突然、日中戦争(支那事変)下の昭和12(1937)年12月に飛びます。ちょうど85年前の今日(12月13日)、中華民国の首都南京を日本軍が攻略したというニュースと共に東京朝日新聞に載ったのが、萩原朔太郎唯一の時局詩=戦争協力詩とされる「南京陥落の日に」でした。国内では戦勝祝賀の提灯行列が催されるなどお祭騒ぎでしたが、蔣介石は中国奥地に移って抗戦を継続。また現地では捕虜の殺害や住民への略奪暴行といった「南京事件」が起きていました。 当時、西欧文明の模倣への反省から「日本への回帰」を主張していたこともあって、朔太郎の国粋主義化の象徴とも見られがちな詩ですが、一方丸山薫への手紙で「断りきれず無良心の仕事をした」と弁解していたりも...。 しかし大正3年から昭和12年に飛ぶとか、『月に吠えらんねえ』みたいじゃ。
朔太郎関連で室生犀星の「霜」を読みました。『地上巡礼』第3号に載った詩で、朔太郎は「室生ではこれを取る」と白秋に言っています。 山村暮鳥の「手」「十月」、犀星の「霜」、北原白秋の「消防整列」と、1914年11月5日に萩原朔太郎が喜んで読んだ詩が、現代の私らも青空文庫でいながらにして読めるというのは大したことだと思いまする。
朔太郎関連で室生犀星の「霜」を読みました。『地上巡礼』第3号に載った詩で、朔太郎は「室生ではこれを取る」と白秋に言っています。 山村暮鳥の「手」「十月」、犀星の「霜」、北原白秋の「消防整列」と、1914年11月5日に萩原朔太郎が喜んで読んだ詩が、現代の私らも青空文庫でいながらにして読めるというのは大したことだと思いまする。
『地上巡礼』第3号に掲載された山村暮鳥の「十月」です。 暮鳥、朔太郎、犀星の3人が結成した人魚詩社は翌大正4(1915)年、雑誌『卓上噴水』を発行。また暮鳥の第二詩集『聖三稜玻璃』も刊行しました。「手」「十月」ともにこの詩集に収められました。暮鳥の人気作品「風景 純銀もざいく」もこの詩集です。
『地上巡礼』第3号に掲載された山村暮鳥の「十月」です。 暮鳥、朔太郎、犀星の3人が結成した人魚詩社は翌大正4(1915)年、雑誌『卓上噴水』を発行。また暮鳥の第二詩集『聖三稜玻璃』も刊行しました。「手」「十月」ともにこの詩集に収められました。暮鳥の人気作品「風景 純銀もざいく」もこの詩集です。
大正3(1914)年11月5日付北原白秋宛はがきで朔太郎が誉めている、山村暮鳥の「手」を読みました。 群馬県出身の暮鳥はキリスト教の説教師でもある異色の詩人で、売出し中の萩原朔太郎、室生犀星にとっては一歩先を行くニクイ奴だったそうです。この3人は同年6月、人魚詩社を結成。翌年には雑誌『卓上噴水』を発行しました。
大正3(1914)年11月5日付北原白秋宛はがきで朔太郎が誉めている、山村暮鳥の「手」を読みました。 群馬県出身の暮鳥はキリスト教の説教師でもある異色の詩人で、売出し中の萩原朔太郎、室生犀星にとっては一歩先を行くニクイ奴だったそうです。この3人は同年6月、人魚詩社を結成。翌年には雑誌『卓上噴水』を発行しました。